#麒麟がくる 最終回に思う
先日、大河ドラマの「麒麟がくる」が最終回を迎えました。いつもの年なら、最終回の後は年末年始で総集編もあり余韻にひたれますが、今回は次週から「青天を衝け」が始まります。次の大河が始まるまでに、最終回に思ったことを書いてみたいと思います。
「麒麟がくる」の主題である麒麟、それは初回の登場人物の駒のセリフに現れます。
『この乱世を終わらせる人が必ず現れる。その人は麒麟を連れてくるのだ。麒麟は平和な世に現れる不思議な生き物なのだ』そして最終回に麒麟が現れたかどうか、それは最終回を見た通りです(ここでは、あえて書きません)。
私がこのドラマを見始めて最初に気になったのは、オープニングロールに登場する名もなき人々でした。彼らは、初回で野盗に襲われる人々と同じ、市井の人々です(現代で言えば、彼らは我々視聴者のような普通の人々です)。最終回に彼らに「麒麟」は現れるのか。さらに言えば、豊臣政権や徳川政権ができた時に「麒麟」は現れたのか。
今回の大河ドラマの脚本家のメインは池端俊策さんでした。池端さんの前回の大河ドラマ「太平記」や、その他の「大化の改新」や「大仏開眼」といった歴史ドラマ、これらにはすべて共通のテーマがあると私は思っています。主人公は戦が嫌いだが、戦をなくすために戦をし、その過程で様々な葛藤があり、様々なものを失い、ボロボロになりながらも勝つ。そして、過去の歴史を知る視聴者である我々は、その勝ちが一時的なものであることもまた知っています。言ってみれば、主人公はみな「麒麟」を追っていますが、結果的にそれを連れてくることはできていません。
イギリスの元首相であるウィンストン・チャーチル.の言葉に次のようなものがあります
実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。
これは、民主主義はまだ道半ばということを現わしているかと思います。今はコロナ禍で大変な時代です。では、コロナ禍が始まる前はどうだったか。麒麟がくるに値する世の中か。お世辞にもそうとは言えません。でも、我々人間は立ち止まるわけにはいきません。麒麟がくる世の中にするために、努力し続ける必要があるのではないでしょうか。
「麒麟がくる」の最終回を見終わった今、登場人物たちの次のような会話が聞こえてきそうな気がします
『十兵衛、麒麟がくる道は遠いのう。我々が去って400年経っても、まだこの国に麒麟は現れんわ』
『大丈夫です。我々の志を継ぐ者がきっとこの先も戦い続けてくれるでしょう』