「巧みに生きるか、善く生きるか」

自分は「巧みに」生きられるほうではありません。だからといって,「善く」生きているとも思いません。ただ、「サバイヴ」したいと思います。生きて,いろいろなものを見届けたいと思います。こう思うようになったのは6年程前に従兄弟の葬儀に出てからです。私は今までに2回従兄弟の葬儀に出ています。1回目は7年程前で同い年の従兄弟で結構話したほうでしたので、ただただ悲しいだけでした。6年程前に亡くなった従兄弟は自分よりかなり年下であまり話をしたこともありませんでしたが,その葬儀に出たときに「自分は生きねばならない」と漠然と思ったことを覚えています。
まあ、これは「生きる」という意味を狭義に捉えた話ですが,いずれにしても「サバイヴ」せねば「善く」生きることはできません。これは、平野さんのエントリーを読んだ梅田望夫さんが平野啓一郎さんの「巧みに生きるか、善く生きるか」を巡って - My Life Between Silicon Valley and Japanのエントリーの最後で述べているのと同じです。これは三国志の中に出てくる「権変の時は、もとより一道の良く定めるところにあらざるなり。逆取して順守す。(変化の時代には、固定した一つのやり方では対応できない。天下を取る時は道義に背いても良い。取ったあとは道義に基づいて治めるべきである)」という言葉にも通じるところがあるかもしれません。