戦争責任者の問題

伊丹万作 戦争責任者の問題

(前略)
つまり、だますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の正体なのである。
(後略)

『戦争責任者の問題』

とても大事で本質的なことだ。戦争は軍人や政治家たちが起こしたのではなく、日本がその方向に進むことを何となく許容していた日本人全員の責任なのだと、伊丹万作は言っている。
戦時下で、当時としては最大のマスメディアである新聞が、戦争を翼賛する報道に変わってしまったことを批判する人は今も多い。
(中略)
もちろん日本が戦争に突き進もうとするときに、戦争を高揚するような記事しか載せなかった新聞は大いに批判されるべきだ。でも、新聞がなぜそのような報道をしてしまったのかを考える人はあまりいない。軍部や国家からの弾圧に屈して、新聞は戦争を起こすことに賛成するかのような記事を書いたと、ほとんどの人が今でも思いこんでいる。
でも事実はそうじゃない。戦意を掻きたてなければ、新聞は売れなかったからだ。戦争への反対意見を表明したら、明らかに部数が落ちたからだ。要するに当時の日本国民は、ほとんどが一丸となって、だまされることを望み、その結果として、新聞をその方向に追い込んだ。
(中略)
つまりその構造はそのまま現代にも当てはまる。戦争だけじゃない。日常の至るところに、この現象は溢れている。すべてを知るのは終わった後だ。皆が呆然と顔を見交わしながら、これは誰が悪いんだ?誰が責任をとるんだ?と言い合っている。でも分かるわけがない。だって全員に責任があるのだから。無自覚だったからだ。知らないからこそ、かつての僕らはあっさりと麻痺をして、そしてあっけなく暴走した。その結果、何十万人もの人々を殺し、何十万人もの人々が殺された。

『いのちの食べ方』

昨日のエントリで取り上げたいのちの食べかた (よりみちパン!セ)で引用されていた伊丹万作の『戦争責任者の問題』を読んでみました。(上にその一部と、いのちの食べかた (よりみちパン!セ)伊丹万作の文章について、述べている部分を引用してみました。)上の文章およびリンク先の伊丹万作の『戦争責任者の問題』を読んでいただければ、伊丹万作森達也、二人の言いたいことはわかっていただけるかと思います。私自身、戦争責任の本質は伊丹万作の文章に書いてあるとおりかもしれないと痛感させられた次第です。