今日の出来事より

以下、長文注意、乱文ご容赦。


http://www.asahi.com/national/update/0323/TKY200903230332.htmlの事件、私は現場に居合わせた。私がどこにいたかというと、突き落とされた女性がいた乗車口の隣の乗車口。そう、すべての出来事をこの目でみてしまったのだ。ここに私が見た出来事を具体的に書くつもりはない。ただ、出来事がスローモーションのように見えたのと、「ウソだろ」という自分の声を聞いたのを覚えている。私が正気に戻ったのは「誰か捕まえて」という女性の声を聞いたとき。その時、犯人はエスカレーターを降りようとするところ。私は「誰かその男を捕まえてくれ」とホームの上から叫んでいた。
現場を見ると、救出活動が始まっていた。電車を乗り換えて帰れば早く帰れることはわかっていたが、そんなことはどうでもよかった。被害者の方の安否が心配だった。見ず知らずの方の安否をこんなに心配したのは初めてかもしれない(帰ってから、被害者の方の命に別状はないことを知り安堵した)。
救出活動が終わってから、電車が動き出すまでの時間の間に冷静になった。その間に、事件のショックと、犯人を追いかけて行くべきだったかという思いと、もしかしたら自分が被害者になっていたかもしれないといういくばくかの恐怖感、それらの感情が複雑に交じり合った思いが湧いてきた。事実、犯人は自分のすぐ後ろにいたのだ。自分が被害者にならなかったのは単なる偶然でしかない。その差はたったの4,5mだったのだ。
精神的に疲れたので座って帰ることにした。帰ってからネットで見ると、事件のことがニュースになっていた。被害者の方の無事と犯人が知的障害者であることもそこで知った(犯人が知的障害者であることはホームでちらっと見たときにうすうす感じていたが)。
今回の事件は自分にとってエポックメイキングな出来事になるかもしれない。テレビやネットで取り上げられる事件が人ごとではないことを改めて考えさせられた。今回のような事件がいつ自分に降りかかってくるかわからない。それらに対して、自分も何らかの対処をする必要があるのではないか(今回のような事件は、対処したからといって防げるわけではないが)。そして、来年度には裁判員制度が始まる。いつの日か、自分にも裁判員が回ってくる。今回の事件は殺人未遂ですんだが、殺人事件の場合どのような判決を下すべきなのか。知的障害による情状酌量は認められるべきなのか。それらのことについて、考えてみる必要があるのかもしれない。