街場の憂国論

街場の憂国論 (犀の教室)

ポスト・グローバリズムの社会では、「貨幣で商品を買う」というかたちでしか経済活動ができない人々と、「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々にゆっくりと分かれてゆくことになるだろう

同胞たちと穏やかに共生し集団がベストパフォーマンスを発揮するためには何をしたらよいのかという問いへの答えは状況的入力が変わるごとに変わるからである。そのゆらぎに耐えることのできる人間を「倫理的」な人間と呼びたいと私は思う

ゼノフォーブは「外国人嫌い」と訳されるが、べつにそれは彼らが「同国人好き」であることを意味しない。国籍にかかわりなく、彼の自己利益の確保を妨害するすべての他者は一括して「外国人」と呼ばれる。(ネット右翼が批判者を誰かれ構わず「在日」と呼ぶのと同じメカニズムである。) (P95)

複雑な問題には、複雑な解決法しかない。「複雑な問題」に「簡単な解決法」を無理に適用する人は、「散らかっているものを全部押し入れに押し込む」ことを「部屋を片づけた」と言い張る人に似ている。



政治システムは「よいこと」をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ「悪いこと」が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる。だが、この意見に同意してくれる人は現代日本ではきわめて少数であろう

近代の歴史は「単一政党の政策を一〇〇%実現した政権」よりも「さまざまな政党がいずれも不満顔であるような妥協案を採択してきた政権」の方が大きな災厄をもたらさなかったと教えているからである。 (P48)

本当の国民経済とは何であろうか。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。 (P118)

同じようにクオリティの商品であっても、「国民経済的観点」から「雇用拡大に資する」とか「業界を下支えできる」と思えば、割高でも国産品を買う。あるいは貿易収支上のバランスを考えて割高でも外国製品を買う。そういう複雑な消費行動をとるのが「成熟した消費者」である。 (P140)

同じ品質なら、一番安いものを買うという消費者ばかりであれば、サプライサイドは「コストカット」以外何も考えなくて済む。消費者の成熟が止まれば、生産者の成熟も止まる。現に、そのような「負のスパイラル」の中で、私たちの世界からはいくつもの産業分野、いくつもの生産技術が消滅してしまった。 (P141)

TPPは「国内産業が滅びても、安いものを買う」アメリカ型の消費者像を世界標準として前提にしている。(略)「アメリカの消費者はアメリカ車を選好することで国内産業を保護すべきだだった」という国民経済的な視点からの反省の弁は聞いたことがない。 (P144)

メディアに「問題を解決してくれ」とか「ソリューションを示してくれ」とか私は頼んでいるわけではない。せめて「問題を報道する」ことに限定してはくれまいか。メディアが「問題そのもの」になってどうする。 (P157)

ほとんどの場合、組織のゆくえを誤るほどにつよい指南力を発揮できる人間は、主観的には「善意」であり、客観的には「わりと賢そう」な人なのである。だから、始末におえないのである。 (P185)

「いや、殿、その先はおっしゃいますな。何、こちらはちゃんと飲み込んでおります。ま、どうぞここは、この三太夫にお任せください」的状況である。このような、「みなまで言わずと」的制止のあとに「殿の意思」として推定されるのは、多くの場合、「三太夫の抑圧された欲望」である。 (P190)

私たちは一般的傾向として、自分が知っている情報の価値を過大評価し、自分が知らない情報の価値を過小評価する。「私が知っていること」は「誰でもが当然知らなければならないこと」であり、「私が知らないこと」は「知るに値しないこと」である。 (P234)

私たちは客観的事実よりも主観的願望を優先させる。「世界はこのようなものであって欲しい」という欲望は「世界はこのようなものである」という認知をつねに圧倒する。 (P235)

教師は「この人は私たちが何を学ぶべきかを知っている」という確信を持っている人々の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能する。彼について学ぶ人たちは「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」を彼から学ぶ。