今年11冊目 坂の上の雲(八)

新装版 坂の上の雲 (8) (文春文庫)

「佐藤、どうしてあんなに勝ったのだろうか」
(中略)
「六分どおり運でしょう」
と佐藤はいった。梨羽はうなずき、僕もそう思っている、しかしあとの四分は何だろう、と問いかさねた。佐藤は、
「それも運でしょう」
といった。梨羽は笑い出して、六分も運、四分も運ならみな運ではないか、というと佐藤は、前の六分は本当の運です。しかしあとの四分は人間の力で開いた運です、といった。

(本文より)

全八巻を読了。読み終えてみると、前半4巻と後半4巻では異なる印象を持ちました。私は後半4巻は日露の組織の違いに焦点が当たっているような気がしました。司馬先生のみたところでは、それが勝敗を分けたということでしょうか。陸軍と海軍の組織の違いもなかなか興味深いところでした。海軍はそもそもどうあるべきかを考えた山本権兵衛と、派閥均衡を重視した山県有朋の比較などですね。

いろいろな読み方ができる本です。軍国主義の高揚のために読むのは論外ですが、この本を軍国主義的と非難するのはあたらないと思います。東郷が兵士の万歳に不快感を示したり、参謀長の加藤や秋山真之が祝電にも表情を崩さなかったという話は、彼らがこの戦争、そして戦争一般が必要悪であったことを示すエピソードであり、その話をあえて書いているのは司馬先生もそれに賛同されていたからでしょう(私もこの戦争は必要悪だったと思います)。年末のNHKのドラマではそのような東郷や秋山の内面がどのように描かれるかに注目したいと思います。もしそれがうまく描けていないと、ドラマが「単なる戦争もの」になってしまうような気がします。

最後に、7巻に興味深い文章があったので引用してみます。司馬先生がこの当時のマスコミ、世論についてどう考えていたかを示す文章です。この本にはあまり書かれていませんが、戦後の世論の高まりや乃木大将の神格化などとあわせて考えるといろいろ考えさせられるものがあります。現代にもつながるものがあるのではないでしょうか。

 日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道し続けて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争まで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道の中で新聞自身がつくりあげ、しかも新聞自身は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。