「悪法も法である」とは古代ギリシアソクラテスが言ったとされる言葉で、一般的には「悪法も法であるから従わなければならない」という意味と言われています。私は最近この言葉の現代的意味を考えることがあり、この言葉の現代的意味には2つあるという自分なりの結論になりました。
ひとつは「自分たちが選んだ自分たちの代表が法を制定した以上、そういう代表を選んだ自分たちにも責任がある」ということ。もうひとつは「どんな法も一定の手続きに従って制定されている。逆にいえば、どんな法律も一定の手続きに従って変更することができる」ということです。
さて法改正の手続きということでいえば、(悪法ではありませんが、)最近時々話題になる憲法改正の手続きについて私の考えを述べてみます。現在の憲法では、国会の発議は両院の総議員の3分の2以上の賛成によってされるということになっています。これを両院の総議員の2分の1以上の賛成に変えようという一部の人々があります。私はこれを認めてもいいのではないかと思います。ただし、「国民の承認は有効投票の過半数ではなく、有権者過半数とする」という条件付きで。ちなみに前回の衆議院選挙の投票率は50%をわずかに超えただけですが、この投票率憲法改正国民投票が行われたと仮定すると、25%前後の人々(無効票が発生することを考慮するともっと少ない%になりますが)の意見によって、憲法が改正されることになります。そのようなことは許すべきではないと私は考えます。憲法改正国民投票の有効投票率を設けようという意見もありますが、私は承認要件を有権者過半数とすべきだと思っています。

一部の人々は「現在の憲法アメリカからの押し付けだから変えるべき」と言っています(そのわりには、アメリカから押し付けられている日米地位協定の不平等の改正には動かないのが不思議ですが)。現在の憲法の制定に関わった白洲次郎氏は「押し付けは押し付けと認めながら、いいものはいいものとして受け入れるべき」という考え方だったようです。私もこの考え方に賛成します。押し付けだから変えるのではなく、今の憲法が悪ければ変える、良ければ変えない。それだけのことです。戦後70年、我々は憲法を変えることの意味について改めて考えてみるべきではないでしょうか。